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能登半島地震のその後 & 2024年3月議会報告

令和6年の元旦に震度5強の地震発生、以来4カ月が過ぎました。

少しずつ復旧が進む町の状況をお知らせいたします。

 

「被災者に寄り添った、復興の地域づくり」をめざして(地元住民と共に)

 

発災直後に鹿島路町自主防災会による自主避難所立ち上げ(1月1日午後5時)、約160人の住民が避難した。

町のいたるところに被害が発生、約200世帯のうち150世帯で住宅被害が発生。10数軒の家が帰宅困難な危険家屋となり、いまも町外に避難されております。以来4カ月が過ぎようとしています。

 

 

■少しずつ復旧が進む町の現状を地震直後と比較しました。

◆農家の納屋が倒壊、やむなく農業を断念した農家も複数おられます。

◆罹災証明で約150の住居に被害が発生。やむなく解体される家は10件を超える見込み。避難された被災者は応急仮設住宅や親せきの家に今も避難されています。

 

◆大きく崩落した旧鹿島路小学校グラウンド。梅雨前の応急措置としてトン袋が土留めとして積まれています。小学校跡の石碑が何とか形を保っていますが心配です。今後市による本復旧が進められることになります。

◆眉丈山からの小河川の擁壁にひび割れが生じ、隣接宅地の沈下・ひび割れ(液状化?)が複数で発生。町会役員に同行し、市に応急修理を要請、急遽対応がなされました。

 

 

◆小河川から宅地内に川水が流入し地震で地盤沈下。コンクリートが割れ、家も傾き始めているが罹災証明は準半壊で動きがとれないと話されています。生活再建支援金と義援金合計20万円では我慢するしかないと。6月の復興基金で想定される宅地復旧支援金の対象にしてほしい、そして住民にいち早く説明してほしい。切に願っています。

◆同じく小河川から川水の流入と揺れで床下を横断する亀裂が入った住宅。罹災証明は半壊。宅地復旧支援がなく現地での再建を断念、町外で新たな生活を考えるとのことでありました。コミュニティの核となるご家族で非常に残念! 今後、新たな支援が出てくるのか?情報が遅く、被災者は動くことができません。(最終的な手出し金の予想がたたないから)。時間とともに諦めていかれる姿を見るのが苦しい・・。

■避難所閉所後も市の防災会メンバーは、羽咋市ボランティアセンターに登録。町内外の片づけ作業に汗を流しました。

◆神戸から重機持参で駆けつけてくれた特殊技能ボランティアの皆さんにも加わってもらえました。土日を利用し名神、北陸自動車道を走って応援してもらいました。市のボランティアセンターからも多くのボランティアの皆さんに入ってもらいました。感謝!

 

 

家が大きく被災し、帰宅困難で応急仮設住宅等に住まわれる鹿島路の方は10数世帯。入居期限が過ぎる2年後の住まいを心配されています。

 

 町外の応急仮設住宅に避難されている方は、「鹿島路に帰り、畑をしながら顔見知りの人達と共に暮らしたい」という希望を持たれています。

 県の建設型応急仮設住宅(ふるさと回帰型・石川モデル)は、この被災者の希望に応える恒久型の木造戸建て風の住宅です。(イメージ図)

 地元町会が、5戸以上の帰還希望者と市に用地を無償提供することで市が県に要請し、県が建設する応急仮設住宅です。被災者は2年間は無償で住まうことが可能で、その後も低廉な家賃で恒久的に住むことができます。(買取も可能)

 鹿島路町に戻りたいと望む被災者の希望を実現し、人口流出からコミュニティの灯りを守るため、条件となる5戸の希望者と用地を確保したことから町会(防災会)でこの程、市に要望書を提出。私も同行しました。

◆ふるさと回帰型(石川モデル)の木造戸建て風応急仮設住宅のイメージ写真(県HPから)

◆町会役員(自主防災会)で市長に要望書を提出。切なる願いに応えてもらえるよう各自発言、熱い思いで要望いたしました。町外に避難される被災者、特に高齢者は新たな住宅再建は不可能。東日本大震災や熊本地震では、ふるさとを離れ孤立し災害関連死につながった事例も報告されています。

 国の財施制度等審議会は「将来の需要減少や維持管理コストの考慮が必要」と人口減少が進む能登半島の復旧・復興に課題を投げかけました。市内においても中心部と集落部のインフラ投資の議論にも重なりますが、羽咋市はもともとコンパクト。ふるさとに帰りたいという被災者とコミュニティで頑張る関係者の希望の灯を絶やさないためにも強く受けて止め、進めてほしいと考えます。

 

 

■202403月議会報告です

2024年3月議会質疑質問 まず、所信を述べました

 1月1日の令和6年能登半島地震において被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。

 私は、地震発生直後、今までに経験したことがない揺れの大きさから避難所となる公民館に直行いたしまた。既に住民が集まってきており、そのまま避難所が開設され、数日間に渡り運営スタッフの1人として避難所で過ごしました。160人の住民が避難されましたが断水による夜通しのトイレの水くみや持ち寄った米での炊き出しなど、自主防災組織や地域住民、帰省していた若者たちの自発的な協力で何とか凌ぐことができました。

 その後も防災会のメンバーは市のボランティアセンターに登録し、今も災害ごみの搬出や被災者相談のサポートを続けております。このような自助・共助・公助の活動が、市内の各被災現場で展開されております。

 発災から約2か月が経ち、地震直後のがんばる期から徐々に先行きを案じた不安期に入ると言われております。支援制度の概要が明らかになるにつれ、情報の遅れや(やむをえない事情もあるが)現制度では支援対象とならない被災者の声を聞くようになりました。

  • 「宅内漏水があり、避難所から戻るために急いで被害箇所と共に修理し支払も済ませた。後で広報の号外が配られ応急修理費の対象となることを知ったが、市の窓口で支払い済みは対象外と言われた。情報が遅い、何とかならないのか」(独り暮らしの高齢者の方)。
  • 「液状化で床下を横断する亀裂ができた。地盤改良しないと不安だが、高齢者世帯には負担が大きく再建できない。液状化対策の支援を考えてほしい」
  • 「借家が被災し大家さんから直せないので退去してほしいと言われ出ざるを得なくなった。市の窓口で、罹災証明が準半壊では“仮設住宅(アパート等)”には入れられないと言われた。地震被害で家に住めなくなったのに助けてほしい」・・・などの声を聞きました。(一部)

 現支援制度では支援対象から外れる案件ですが、熊本地震での復興基金では手を差し伸べたケースもあります。この案件を含め、被災された方々が希望を持って街に残り、そして戻ることができるよう、復旧・復興に向けての道筋を早急に示すことが必要と考えます。

 以上から 「能登半島地震の被災者支援と今後の復旧・復興」 に向けて、一括質問形式で質疑・質問をいたします。

 

 

 

 

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